中村扇雀の公式ブログ

「プライベート」記事一覧

「叔母、中村玉緒を悼む」

2026年6月13日

報道されているとおり亡父四代目坂田藤十郎の実妹である中村玉緒が永眠致しました。

生前の叔母を支えて下さった皆様に心より感謝申し上げます。

肉親とはいえ奥村家(勝家の本名)に嫁いでいた叔母ですので、私の祖父である二代目鴈治郎夫妻死去ののちはお互い忙しさもあり深い付き合いというわけではありませんでしたが、勝叔父が亡くなった後は従兄弟や叔母とは電話で近況を話し合う間柄でした。
先に亡くなってしまった長男の雄大のことを本当に叔母は気にかけ可愛がっていたので亡くなったときの悲しみは、勝叔父が亡くなった時以上の深い悲しみだった思います。

私の母が公職にあった関係上、勝叔父の騒動の後は私の両親は自然と距離を置いていましたが、私自身は勝叔父が、亡くなった勘三郎さんのことを好きで舞台を観に来られて後で3人だけで飲みに行き、芝居の話に花を咲かせ、目の前で私のやっていた役をこうやってみろよと突然自身でやって見せてくれるたことがあったり、京都で何度も飲みに連れて行ってもらった懐かしい思い出があります。
叔母は祖父が競馬や麻雀が好きでしたので遺伝したのでしょう、麻雀やパチンコ、スロットが好きなことは周知の事実でした。バラエティーでは陽気な一面を見せていましたが電話では歌舞伎の舞台どうなのとかお兄さん(藤十郎)元気とかいつも30分近く話していましたが、言い方は変ですが真面目な話をしてました。
母が疎遠にしていたので父の藤十郎襲名のときなど母が楽屋に来ない日を知らせて叔母を父の楽屋に案内したり、父の入院中も母の目を盗んで会って貰ったりしていました。

そんな叔母は父が亡くなる前日突然夜中に電話してきて「ヒロくん(私の本名)お兄さん大丈夫?今夢で会いに来たんだけど顔がはっきり見えなかったの、大丈夫?」と尋ねてきました。その翌朝父が亡くなり、離れていても血の繋がりは凄いなということを実感しました。
父も疎遠になってたことを気にかけていたのかもしれません。
通夜の席で母の手前明るく振る舞っていましたが、内心はつらかったのではないかなと思っています。

若い頃は雷蔵さんのお嫁さんになるって決めてたとよく言ってました。
梨園の初代鴈治郎の孫として生まれ箱入り娘として育ち、舞台にも早くから出て大人の世界に足を踏み入れた叔母はその世界の人たちの中にいることが当たり前で、歌舞伎の世界の人と一緒になることは自然だったのかもしれません。というのは勝叔父は元々長唄の三味線を弾いていて杵屋 勝東治さんの次男で三味線は素晴らしい技量でした。お父様の勝東治さんの喜寿の会で、勝東治さんの立三味線で勝叔父が二枚目、若山富三郎さんが立唄、立鼓が父の藤十郎そして二枚目に兄、私が三枚目の小鼓でほぼぶっつけ本番で「越後獅子」を演奏したときの勝叔父の三味線の見事さは今でも忘れません。そんな勝叔父ですから映画俳優の道を歩みましたが歌舞伎とは縁のある関係者でもありました。そして勝叔父、雷蔵さん、父の藤十郎は同い年でしたので交流も元々あったのでしょう。勝叔父との結婚でその後の人生は波瀾万丈なりましたが、推測ですが生まれ変わっても勝叔父を伴侶に選ぶのではないでしょうか。色々な言葉の端々に感じてました。

歌舞伎界はは殆どがどこかで系図が繋がっているのですが私の家は関西の出身で系図で繋がる歌舞伎役者は数人です。そんな親戚の少ない家の中で歌舞伎役者ではありませんが歌舞伎役者の娘として女優として激動の人生を歩んだ叔母には、役者としての魂をいつも感じてました。少しでも舞台に立ちたいとよく口にしていましたし、舞台が決まると嬉しそうに語ってくれていました。
この1.2年は電話で話すこともできておらず訃報に触れ、人には必ず死が訪れるものだなと改めて実感しています。

素敵な叔母ちゃん本当にお疲れ様でした。

合掌

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「本日は父の命日」

2025年11月12日

2020年11月12日
父四代目坂田藤十郎が他界し5年の月日が流れました。
青山妙圓寺さんにある祖父・父の追善の碑です。
反射で見にくいのですがそれぞれの戒名の最初の二文字"光藝"と"妙藝"が刻まれています。
こちらで法要のお経をあげていただきます。

IMG_2641.jpeg

今年映画「国宝」でにわかに歌舞伎に注目が集まり始め役者としてお客様にいかに納得しリピターなってもらうかということがより求められてくると思っています。

父が四代目坂田藤十郎を復活襲名した思いを再確認する日でもあります。

今年の誕生日で65歳になりますが、ジム通いを欠かさず体力の維持に最も気をつかい一日でも長く舞台に立ち、先祖は勿論ですが数多の先輩方が生み出し後世に残したものを踏襲しつつ、現代のお客様により一層楽しんで頂くことを目標に舞台に臨んでいくことを父の位牌に誓ってきました。

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「今野敏先生」

2025年1月21日

昨日作家の今野敏先生と対談してきました。

「隠蔽捜査」という2011年に出演した舞台の原作者の今野先生とはその公演以来のご縁で舞台を観て頂いたり食事をしたりのご縁です。
今回「署長サスピション」刊行記念対談を講談社の方が企画して下さり久しぶりにお会い致しました。
「封印切」を歌舞伎座で観劇して下さったのちに約3時間に及ぶ会食で楽しい会話を満喫致しました。

小説現代4月号(3月22日発売)に対談が掲載されますので是非ご覧下さい。

会話弾みすぎで先生と写真取るの忘れてました、、、

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「阪神淡路大震災30年」

2025年1月17日

毎年この日が来ると扇雀襲名中座公演を思い出します。
震災から30年はそのまま扇雀襲名から30年と重なります。

発生時は宿泊先のホテルのベットの上でした。
かなりの高層階でしたのでホテルが折れるのではないかと心配になるほどの揺れでベットから降りてもすぐに立てない程でした。やっと立つことが出来た時には当時まだブラウン管のTVが台から落ち換気口からは埃の塊が落ちスタンドが倒れていました。揺れが収まり廊下に出てみるとそこには人影がなく館内放送もありません。おそらく早朝のことでしたからホテル側の体制も整って無かったのではないでしょうか。
前日に父の曾根崎心中お初1000回を迎え華々しくお祝いをした翌朝の出来事です。
襲名披露も一週間ほど残しての突然の自然災害に心の動揺と共に何をすべきなのかすぐに浮かばないものです。なかなか情報が出回らず徐々に神戸の映像が映し出され各地で火の手が上がり、高速道路の倒壊が映し出され大災害が映像として目に入ってきました。
中座自体も古い劇場でしたから被害が心配でしたが何よりも関係者に被災した方がいないのかが気になります。公演はもちろん中止と思ったのですが、松竹の判断は一時間開演を遅らせての上演決行でした。
中座に到着すると幸い建物の倒壊はなく屋根瓦が上から数十枚崩れ落ちていましたが、舞台機構に支障はないとのことでした。私達東京からの役者は近隣のホテルに宿泊していますので徒歩圏内ですが、働いている大道具さんや劇場係員の方や関西在住の役者たちは交通手段が確保できず劇場にすぐに来られません。それは観客の皆様も同じ事です。
かくて一時間ほどの遅延の後に十種香の幕が開き八重垣姫を努めたのですが、客席のお客様は200名にも届いて無かったのではないでしょうか。勝頼を努めて下さった富十郎のお兄さんも「本当にやるのかい」と劇場の判断に流石に驚いてらっしゃいました。被災者の方々のことを思うと複雑な気持ちでしたが、劇場に足をお運び下さった皆様には自分のするべきことを努めなくてはという気持ちが勝ちます。
翌日以降も公演は続きましたが、休憩時間にロビーに出て扮装のまま募金を募ったりはしましたが、自然の災害に対して自分自身の無力を感じずにはいられません。

私の母の生まれ故郷である兵庫県は子供の頃からよく遊びに行き馴染みの深い土地なので今も大阪公演の際には神戸に足を伸ばし好きなお店に通うようにしています。
京都と並んで第二の故郷です。その皆様に現地で歌舞伎の楽しさ面白さを広めたいと努めています。それが私のできる1番の事です。

改めて亡くなられた方のご冥福を祈ると共に自分のできるお芝居で皆様に喜びや生きがいを感じていただけることを目指し、今日も先祖から伝わった上方歌舞伎の真髄を東京の歌舞伎座でお見せしたいと思っています。

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「練習ハ不可能ヲ可能ニス」

2023年8月24日

「練習ハ不可能ヲ可能ニス」
慶應義塾體育會のモットーです。見事に体現してくれました。
"エンジョイベースボール"を掲げて昨日全国制覇した母校慶応高校の皆さん心からおめでとう。
そして参加した全国の野球部の皆さん人生の中で最高の夏を過ごせたことを誇りに持ってください!

35年前に生徒会長を務めた母校が、高校野球全国制覇の偉業を達成した事は感動や感激という言葉では表現出来ないほどの歓喜です。
慶應大学では體育會ゴルフ部に所属して4年間学ラン通学でしたので體育會の厳しさは体が覚えています。それを乗り越えた先の結果は人生最高の経験となります。

中継を観ていて慶應の応援がひっきりなしの大ボリュームでだいぶ批判を浴びていたようです。仙台育英はやりにくかった事と思いますが、アウェイの試合は国際試合ではよくあることなのでそれも運命、乗り越えてほしいと思います。慶応の応援を誉めることはしませんが僕も球場にいたら声の限り声援を送っていたと思います。母校愛とはそんなものです。

スポーツには勝ち負けは必ずついてくるものです。勝者と敗者に優劣はつきません。
運命的なことだと思っています。その運命を受け入れて成長して行くのではないでしょうか。

練習ハ不可能ヲ可能ニス

かつて慶應義塾の塾長だった小泉信三先生のことばです。
スポーツに限らず人生の教訓として大事にしてる言葉です。

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「出身校の活躍!」

2023年8月17日

夏の甲子園高校野球で出身校・慶應義塾高等学校がベスト8に進出!

在校時第30代生徒会長を務めた出身校の活躍嬉しいの一言です。
勝って塾歌が歌舞伎座の楽屋のTVから流れた時は思わず口ずさみました。

今月の歌舞伎座のパンフレットの役者紹介の欄では質問形式になっていて、この夏暑くなる事はと言う質問に「母校の応援」と答えていましたが、まさにその通りになっいます。

この勢いで頂点を目指して下さい。熱く応援しています!

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「上岡龍太郎さん」

2023年6月 4日

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右は顔が翳ってますが掛布さんです。

上岡龍太郎さんの訃報が入ってきました。
笑福亭鶴瓶さんや勘三郎さんと共によくご一緒させて頂き色々なことをご教授頂きました。
僕がマラソンを走ったのも上岡マラソンに出てみたいという気持ちからでした。
引退された後も大阪の劇場にお忍びでいらして決して楽屋とかは顔出しなさいませんでした。後から人伝に感想を言って下さったりしましたが、引退後はご本人は食事の誘いとかは断られお目にかかることはありませんでした。
そんな中5年前に関西テレビの方から上岡さんと回りましょうよとゴルフのお誘いがあり、一にも二にもなくお願いしますとお返事しました。同伴に旧知の掛布さんもいらっしゃってそれはそれは楽しいラウンドでした。
久しぶりにお会いした上岡さんはかつてのままの雰囲気で飄々となさり賢者のままでした。
ホールインワンをなさった記念品を下さり、プレーの後は「良い冥土の土産ができました」
と冗談とも本気とも取れない言葉をおっしゃり「やめて下さいよ縁起でもない。どこかお悪いんですか」と言いますと「いえ別にそんな気持ちです」というようなことをおっしゃいました。しかしそのゴルフが本当に最後になってしまったこと寂しい限りです。
いつも、なるほどということを沢山教えて頂きました。
心よりご冥福をお祈りいたします。

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「11月12日父の三回忌」

2022年11月13日

6月末よりホームページが不正アクセスを受け閲覧できない状態が長く続いておりました。
ご不便をおかけしましたことをお詫び申し上げます。
それ以降ブログ更新をしていませんでしたが、父の三回忌を機に再開いたします。

その後7月松竹座・8月歌舞伎座・10月平成中村座公演と出演が続き今月も中村座で宮藤官九郎さんの新作を含めた3演目に出演しています。

コロナの影響を受けつつも代役を立てるなどの方法で公演が続きお客様もほぼ100%の状態でご来場して頂けるようになって、徐々に正常な状態に戻って来ていることが何よりも嬉しく、精神的に余裕が出始めている気がします。

さて、父が亡くなって丸2年三回忌を迎え日に日に思うことは父が目指してきた事を引き継がなくてはと言う思いが増していると言う事です。
昨年の12月に曽根崎心中のお初を努め、その責任や必要性を強く感じています。

平成中村座に出演していると、30年余り哲明(のりあき)さん(18代勘三郎さん)と芝居を作ってきた事が走馬燈のように思い出されますが、その全ての経験が今自分の舞台に出ているのだなと思うと感慨深いものがあります。ハエの逸話をご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、今月は何度も楽屋や舞台に姿を見せてます。

亡くなった父が姿を変えて目の前に現れたのは亀でした。今年の5月の休暇で何年振りかで父の好きだったハワイに家族で訪れた時、ワイキキの人が大勢泳いでる岸から20m程のところで突然私たち家族の目の前に体長70cmほど亀が海面に顔を出し私たち家族と目があったのです。全員が父を感じたのです。
言葉で説明しづらいのですが、父が亡くなる前日の夜に叔母の中村玉緒の枕元に父が現れ、叔母がすぐに私のところへ電話かけお兄さん大丈夫と会話をした翌日父が亡くなったのでしたが、人の脳はいろいろなものを感じているのではないでしょうか。それによって勇気づけられたり力が湧いたり。何か方向が見えるきっかけになったり。

会話では伝えてもらわなかった父、祖父、曽祖父そして先祖の思いを何か感じ取ってそれを体現して次に繋げていくことが今の最優先事項なんだなと、父の三回忌で改めて感じています。

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「坂東竹三郎さんご逝去」

2022年6月22日

竹三郎さんご逝去の連絡ありました。
父と同世代で今だに舞台で活躍していらした生き字引のような先輩でした。
来月松竹座公演にはお名前もあり久し振りにお会いできることを楽しみにしていました。

普段は「ひろ君」と私の本名で気軽に呼んで下さり、私の生まれる前の上方の先輩たちの話をよくして下さり色々とお教え頂いたのも嬉しい財産です。
虎之介の成長もとても喜んで下さり、一座していない時など、今月はどうしてるの?見にくるの?と、いつも気にして下さいました。
父、秀太郎さんそして竹三郎さんと上方の女方を失った損失は計り知れません。
ジャラジャラしたまとわりつくような上方独特の空気感というのは一朝一夕に身につくものではありません。残った私たちでその芸の継承をしっかりしていくことが先輩たちへの約束と思っています。

竹さん(生意気にもこう呼ばしていただいてました)の数々舞台姿を目に浮かべここに心からご冥福をお祈り致します。

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「祖父二世鴈治郎命日」

2022年4月13日

4月13日は私の祖父二世鴈治郎の命日です。
昭和58年亡くなりましたので39年目、年回忌として呼び方はないと思いますがあえて言えば40回忌に当たります。
私が大学を卒業したのが同じ昭和58年の3月なのでその年の5月南座で8歳から14年ぶりに舞台に立ってから39年の月日が流れたことに感慨より驚きです。

2月コクーン歌舞伎のことも、コロナに罹患した事、その後の事なども文章にすることなく時が過ぎてしまいました。

満席のコクーン歌舞伎の熱気はコロナ禍以前を思い出し役者として生きてきたことの喜びを久しぶりに感じた。最後の2日間チケットをを購入して頂いて下さった方にあまりにも遅ればせながらですが、お詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。
この2年間何が、誰が、悪いわけでもなく、ただ現状を受け入れるしかなく、それに対応すべく色々な試みがネット上という新しい空間の中で行われ、新しい文化や流れが時代に即応して生まれてきていることの凄さを感じつつ、自分は傍観者になっていることに、何かしらの不安や焦燥感を抱きつつ時だけが過ぎている。
その間、父が亡くなり、秀太郎のお兄さんが亡くなり、上方歌舞伎をこの先継承していくことが生涯の目標の一つと思っている自分は今日、祖父の命日に「不忘初心」の気持ちを新たに書いてます。
コロナ禍以前の歌舞伎はどこに行くのだろうか。

先週靖国神社の薪能を拝見しに行き心の中の鬱憤が晴れる思いがして、この気持ちを決して忘れてはいけないと強く感じた。古典、伝統、文化、芸術、継承。敬愛する世阿弥の多くの言葉を頭に浮かべ、舞台を食い入るように見て、目の前の全てのことを感じることに集中する楽しさ、心地良さ。この感覚を演者として忘れないこと。
3月末に新橋演舞場でOSKの舞台を観た時も同じことを感じた。客席にいる楽しさ。しかしそれは演者や関係者全ての人が気持ちを一つにして命懸けで作るものでなくてはいけないのでしょう。このコロナ禍に多くの舞台や映画を見てきて歌舞伎を振り返る機会が自ずと増えてきた。
名優と言われた祖父は何を思い何を願い役者人生を歩んだのだろう。
本人に聞けないのだから残された書物を読むもよし、自分なりに空想するもよし。

今舞台に立てていることを改めてご先祖様に感謝を。そして「不忘初心」。

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